摂理の彩り〜芸術と信仰生活〜

摂理で絵を描いてるMinoriの日記帳。芸術関連の備忘録。

自分のテリトリーを崩してみた結果

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結果よかったって話。

 
昔から、自分のテリトリーが堅固にあって、そこに入れる人はごく限られた人だった。
友達といっても、1年以上共にしたとか、悩みを打ち明け合ったとか、そういう経緯がないと友達と言えなかった。
自分の世界観があり、それを壊されたくなかったし、その中にずっと入って生きようとしていた。
そして、限界がきた。

 
摂理にきて、出会ったことのないような人種に出会った。
そう、御言葉を勧められる時も、私は生意気な学生だったため(心の中では人にヒエラルキーをつけていたところがあった)、容易に「うん」とは言わなかった。
いろんな人に勧められたが、最後に家庭局の男性の方が知識や社会経験を話してくれた(まったく上から目線ではなかったのが今考えると凄い)。就活生の自分には新鮮だったので、とりあえず聞いてみることにした。

 
ぐいぐい系の人たちもいたけれど、最初それに反発したくて逃げたい気持ちでいっぱいだった。自分の築いてきたものをいじくりまわされるのがとても不快だった。
それだけ、自分の人間の許容範囲が狭かったのだ。
しかし、それをわかって徐々に関係性を築きながら接してくれる人もたくさんいた。
 

そう、自分の許容範囲が狭い問題。
このテリトリーを壊すべきか、守るべきか。それが御言葉を聞いてから、大きな難関になった。
守れば今まで築き上げてきた自分の世界が保てる。今までどおりのテーマで絵も描ける。
壊せば崩れるが、不安定になる。自分は何を描いたらいいのか。何をして生きていったらいいのか。
そもそも、多くの人たちを受け入れ接する器は自分には無い。振り回されたくないし入られたくない。
 

御言葉を聞いていくうちに、私はためらいながら自分のものを一旦捨てることにした。大冒険の始まりである。
バベルの塔がガラガラと崩れる音がした。

摂理にきて、怒られたりもした。
他人から怒られ慣れていない私はとても腹が立った。なぜこう言われるのかがわからず、その愛がわからず幼稚だった。
でも、ひたすら御言葉が好きでここまで来たから、経緯が宝物だ。

 
もし御言葉を躊躇いながら聞いてる人がいれば、その躊躇いは一旦置いてみてと言いたい。
自分の守りたいものや、自分の握りしめてきたもの、それ以上に神様は祝福してくださる。大きなプレゼントを用意して。
だから、その手に持ってる荷物を一旦置いて、両手いっぱいに神様のものをもらったらいいと思う。絶対に両手では持ちきれないほどくださる。洪水のように。

自分のものを置くというのは、完全に捨てて失ってしまうことではない。
神様は人間に”失わせる””失望させる”ことはなさらない。
逆に”得ること””享受して使うこと”をたくさん与える。神様の最高の方法で。

いくら貴重な上に貴重でも、「本人の考えの次元」が低ければ、貴重なものを見ることができず、悟れない。だから喜びがいつも「その次元」の分しかない。

神様と聖霊様と御子主と共に愛して、貴重な上にも貴重に思って仕え、近く接して「愛の対象」になって生きなさい。そうしたら行なったとおりに全てのことにおいて「貴重なもの」をくださる。

<自分が得ることのできないものを得たこと>が「貴重なもの」を得たことだ。

(鄭明析牧師の明け方の箴言)

 
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