発達障害(ASD)についての記事を以前書いて、意外と反応があったので、これからはこういったことも正直に書いていこうと思う。
自分がASDの傾向にあるんだなとわかった時、とてもスッキリしたし、自分の状態が今「どうであるか」を察知して生活できるようになったことがとても大きかった。
今まで「甘えだ、みんなやっている」と思って苦痛だったことが、「私は私」と考えられるようになった。
先日、主日の礼拝が終わってから、他の御言葉の時間があった。他の人からも「聞いた方がいい」と勧められていて、ほかのメンバーは時間になると場所を移動していた。
私はこの日、脳みそがパンパンで飽和状態だった。もう何も考えられず、ただ「疲れた、頭重い」。
でも甘えだな〜どうしようかな〜と悩んでいた時、ふと感動が来た。
「今までこういう状態で無理して聞いていた御言葉は、全然内容覚えていない」
そう、、、、覚えていないのだ。
聞けたってだけで満足して、全然身になってないのだった。それに気づいた。
しかも、御言葉の中の断片的な、核心的でない一部分のことはよく覚えている。(はい、ASDの特徴でたーw)
これはいけない、と思って、貴重な御言葉せっかく聞くなら万全の受け入れ態勢で聞かないとダメだということがわかった。
結局この日は断念。脳と体を休めることにした。
今までそれに全然気づけなくて、たくさん聞いてきたのに実践できていなくて、悶々としたこともあった。
そう、脳が飽和状態の時は無理してはいけない。
主日礼拝の御言葉が核心だから、それをしっかり飲み込んでおこなうこと。それだけで十分にできる。
人よりもたくさんのことを吸収し、たくさんのことに慣れ、人と調和し、環境に慣れるということが大いに負担で大ダメージを受けやすいASD。
自分の特性をわかって御言葉も聞いていければいいと思う。