摂理の彩り〜芸術と信仰生活〜

摂理で絵を描いてるMinoriの日記帳。芸術関連の備忘録。

”得意”かどうかは、摂理ではさほど重要ではない

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自分は何の才能と個性があるのだろうかと考えたときに、「これだ!」というものが無かった、というのが、摂理人だろうとそうでなかろうと同じことだと思う。

 

私は小さいことから絵を描いてれば黙って大人しくしてる子供だったが、「絵が得意」と思ったことはあまりなかったように思う。
もちろん、学校の先生や友達から褒められて「自分はこれがすきなんだな、合ってるんだな」と思うことはあった。
が、胸を張って堂々と「私は絵が得意でーす!!」と言えたものではなかった。
 

サッカーをしてきた人は、「サッカーが得意です!」と万人の前で言えるかどうか。
ダンスをしてきた人は「ダンスが得意です!とみんなに言えるかどうか。
どの分野でも上には上がいるし、恐れ多くも「得意」などと自分は言えるようなレベルじゃ無いと考えてしまう。

 

私が摂理にきて信仰を持ち始めた当時、周りにさほど絵を描く人がいなくて、ありがたいことに貴重に思われた。しかし、絵を描くという特殊な人間のため、もがきも多かった。
 

摂理はいろんなことができる人が多い。よくこんなにも個性と才能たちが集まったもんだと思う。
でも、最初から得意だったわけじゃない。
最初から説教が上手かったか?最初からその役割(使命という)を任されて、神様の力を借りて有能にできたか?いや、そうではない。

 

宗教は「信じればなんか不思議な力で凄いことできるようになる」とか偏見があるならば解かなければならない。
少なくとも摂理はそういうことは教えていない。
『実践した分、得るようになる。努力しなさい。研究しなさい。やればできるようになる。』・・・これが、鄭明析先生の哲学だ。

つまり、「もがいて努力した人が、個性や才能を発揮できるようになる」ということだ。
これは理知ではないだろうか。

 

摂理の役割は、得意かどうかで選ばれるのではなく、「自分がその分野を好きで、愛で、行う意思があるのか」だと思う。
もちろん、”適性”の有無はあるが、得意だからといってその使命をひたすら続けるのか、ということもない。

摂理は「私はこれと言って特技も才能もない」「私はぱっとしない」と思っていた人が、育てられて素晴らしく生きている。
天の方法は、「人を育てる」やり方だ。
最初からできる人がいればそれに越したことはないが、人は育ってこそやり甲斐があるのではないか。

 

私も、合唱なんて大嫌いだったのに、なぜか信仰持って半年で聖歌隊になったりした。
聖三位はどういう方法で人を育てるかわからない。
通常の人間の考えでは「この人は合わない、使えない、だめだ」と判断してしまうのに。

 

「得意かどうか」ではなく、「愛で行うかどうか」をご覧になる神様でいらっしゃる。
下手くそなものでも、愛があるかどうかだ。

だから私は摂理の中で絵を描いて生きられるのがとても良い。
ここは嫉妬を伴う競争や比較が無い。
だからといって甘えてるんじゃなく、研究しまくる。神様の懐は、努力すればするほど得られる世界だから。

 

自分の才能を見つけたい、個性を見つけたいと思う人であれば、摂理にきた方が絶対にいい。
人と比較して生きるよりも、自分自身を研究しひたすらつくることのできる生き方が、はるかに優っているはずだから。

 

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