摂理の彩り〜芸術と信仰生活〜

摂理で絵を描いてるMinoriの日記帳。芸術関連の備忘録。

無いなら作れ!洗脳精神から摂理の開拓精神へ。

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摂理で信仰を持ってから、とにかくいろいろと足りなかった。
自分自身も足りなかったし、摂理の中の文化や芸術も足りなかった。

発展途上だということはわかっていた。
御言葉は完全だ。天の構想も完全だ。
しかし、私自身が「こういうものがあれば」「こうできたら」といつも物足りなさを感じていながらも、動くことができずにいた。

 

現状満足すれば、そこから次元を上げることはできない。
自分は人一倍好奇心が強くて、目新しいものが好きで、でも芯はしっかり持っていたいという人だったため、摂理の御言葉は納得した。
でも、自分の「摂理の信仰者としてこうあるべきだ」みたいな、教えられてもない”自分の設定した枠”の中に、いつの間にかはまっていた。
つまり、自分で自分を洗脳していたのだった。

だからいつも違和感を感じた。
「こういう服を着るべきか?」
「こういう絵を描くべきか?」
「こういう会話をするべきか?」

完全に人を見ていた。神様を見ていなかった。自分でつけた”周囲と似たようにしていなきゃいけない”鎖にもがいていた。(ザ・日本人)
聖三位は無限な構想やアイデアで可能性を切り開いてくださるのに、私は人の評価ばかりを気にしていた。
だから、常にアイデアの欲求不満状態だった。
要するに、御言葉を聞いていながらも、まだ以前の次元から抜け出せていない状態だったのだ。
きっと、摂理の信仰を持っていなかったら、もっと人を気にして神経をすり減らす人生だっただろう。自らの問題に気づけたことが幸いだ。

 

先生の精神は普通の人と違った。
「こういうのがあったらいいのに」から「無いなら作ればいい!私が作ろう!」という精神だ。
先生が鎌を持って雑草の道を切り開いていったように、「無いなら自分が作る」「自分が先駆者になる」ことを学んだ。
御言葉を行ううちに、自分が自由になっていくのを感じた。

人の評価ではなく、御言葉が自分を変えた。
御言葉通りに行えば、必ず欲しいものを得ることができる。
人の目を気にしていたら、不満は治らないし自分が辛い。

 

最近はさらに「こういう作品を作りたいなぁ」とか「こんあのあったらいいな」を形にすることに重点を置いている。
もう無い物ねだりするのはやめた。人の顔色を伺うのもやめた。どんなに人に言われてもいい。

そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう
(ヨハネによる福音書:8章:32節 )

 

周囲を気にして「摂理の信仰者はこうしなきゃいけないのかな?」なんて不安になっている人がいれば、それは心配しなくていい。
「御言葉を実践すれば」それでいいと私は思う。
摂理は自由だ。自由でなくさせているのは”人間の考え”だ。

周囲に無いなら作ればいい。やりたいと思った時が機械だ。
先生だって野心作を造るときに、突飛すぎる考えで人に理解されなかったんじゃないか。
それでも、地球上どこにも無いものを造りあげた。

 
『無いなら自分で作れ!』最近の自分のスローガン。

<信仰が生きている人>は自ら実践して動く。
(鄭明析牧師の明け方の御言葉より)

 

 

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