摂理の彩り〜芸術と信仰生活〜

摂理で絵を描いてるMinoriの日記帳。芸術関連の備忘録。

摂理の御言葉で得た、芸術の答え。

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摂理の御言葉で得た、芸術の答え。

高校の時、私は美術部だったが、顧問の先生が熱心で大らかな方で、とてもお世話になった。
当時、美大を目指していた私にその先生は「芸術に答えはないんだよ♪^^自分で探していくんだ。だから面白い。」と言った。その時私は「ほほー!」と思って感激したが、今考えると、とても虚しい言葉だったんだと分かった。

「何のために絵を描くのか?」「なぜ答えのないことをしているのか」・・・年齢を重ねるにしたがって、疑問は増すばかり。
「私が絵を描いていて、何の意味があるのか」とさえ考えるようになった。「ただ好きだから」という言葉で片付けようとした。

 
鄭明析先生は、「芸術は天に栄光を帰するためのものだ」と、はっきりとおっしゃった。
創造者が人間を創造したのだから、芸術という表現方法を下さったのも創造者なわけだ。
人間はその霊性ゆえに、原始の頃から神様をたたえる芸術をしてきた。
人間が発達してきた過程で、芸術は不可欠なものだったし、神様を中心とした“目的”があった・・・。
数多くの芸術家は、真理と美を追求するためにもがいたわけだ。

 
しかし、次第に“目的”が崩れていった。
残念なことに、人間の欲だけのための芸術、なぜするのかわからない芸術が最近特に多いと感じる。
今や「芸術は宗教から抜けだして自由になった」「自由な表現の芸術を!」というが、御言葉を学んだ私としては、「神様のところから家出をして、さまよう芸術」にしか見えない・・・。
目的が見えなくなってしまった。
目的があっても、それが人間の根本的な問題解決にはならない。問題提起はできるけど、答えを提示できるものがない。
芸術が迷子になっている。

 

それで、私は絵を描けば描くほど、楽しいはずなのに、好きなことしてるはずなのに、だんだん苦しくなっていった。
摂理に来て良かったことは、ただひたすら喜びと感謝と愛で作品を作れるようになったことだろうか。勿論もがきはあるけど。
人の評価を気にせず、ただ天だけを見て行える。
人は技術や能力などの外側を見るが、聖三位はそれを第一優先に見ない。
もし技術技巧が第一優先に評価されるなら、この世の誰も、全知全能な神を満足させられるはずがない。

 

すべての問題の答えは「御言葉」で出ていく。
(鄭明析牧師の明け方の御言葉より)

 

芸術だけでなく、様々な分野で、御言葉から答えを得た人はとても多い。
答えが分かったから、一生懸命、天を愛して描いていきたいと思う。
 

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