摂理の彩り〜芸術と信仰生活〜

摂理で絵を描いてるMinoriの日記帳。芸術関連の備忘録。

なぜ私は摂理という場所にいるのか。労苦しても今まで脱会しなかった理由。

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大学4年生で摂理に出会って、ほとんど社会人で信仰を持ってきた。

 

摂理に来たばかりの頃、この宗教が世間にどんな風に言われているのか全然わからなかった。
だから、いろんな意見を見たし、その中には摂理の批判も多くあった。今でもそうかもしれない。
摂理を脱会した人の意見も読んだ。(そもそも信仰に入会とか脱会とか言う概念はないはず;)

 

しかし、私がここで信仰をもってきた実際と、その意見とは、まったく食い違っていた。
なぜこんなに悪く言われるのか、私は理解できない。
世間やマスコミで言われてきたことと摂理の実情はあまりにも違うから、逆に驚くばかりだ。

 

特に日本人は宗教に対して根強い偏見がある。カルトと宗教の区別がつかなかったりね。
人って未知なものに対して警戒心があったりする。
それは摂理や宗教だけではなく、知らないものに触れたときに起こる自然なこと。
私自身も宗教に対して強い偏見があったし、しばらくは「私はここに居ていいのだろうか?」「騙されてるんじゃないのか?」と疑問があった。だから、一色単に「批判するな!」と言うつもりは無い。私も経験してきたから。

 

そもそも、宗教は教理で人間の自由を縛り付けるものではない。
精神を自由にして、楽にして、もっと人間らしく、本来の性質通りに生きられるようにするものではないだろうか。

私は摂理でそれを得た。
本当に自由になったし、生きやすくなったし、生活も楽になったし、心が楽しくなったし、希望が持てるようになった。

 

私がなぜここにいるのか、それは、人生のなかで得るべきものを得たからだ。
それ以上でも、それ以下でも無いなと。最高のものを得た。「核心」を得たことは全体を得たことと同じだ。

 

もし、目の前の、成長するために必要なほんの些細な辛さや大変さを我慢することが出来なかったら、私も摂理を出て行っただろう。
メンバーのあいつが悪い、こういうやり方が悪い等々・・・不平不満を漏らしながら。また、こうしてくれない、ああしてくれないと疎外感を持ちながら。そんなこと、社会の中ではもっと起こっていることなのに。自分の水準で物事を見るとそうなる。
しかし、摂理は少~~し労苦しても、若いときの限りある時間、将来実を結ぶために行なえる場所だ。
途中で出ていかなくて良かったと思っている。

 

神様は、自分の今まで持ってきたもの(物質ではなく)を捨ててこそ、その空っぽになった手に、もっと大きな新しいプレゼントをくれる。
それなのに、今までのものに固執して、捨てられないと言って止まっていたら、神様がどんなものをくれるのか分からないで生きただろう。
捨てる労苦、山に登る労苦、走る労苦・・・摂理に来て行なって得たものは、あまりにも大きすぎる祝福だった。こんなにもらっていいの!?って感じで。

だから、脱会する、信仰を捨てるということは(よく揺れたけどw)、しなかった。
誰かが止めたからではなく、自分の意思だ。

何かの目的を成す上でも、信仰生活をする上でも<大変なこと>ばかり考え、<その仕事をする上で支払う価(あたい)が大きいということ>ばかり考えたら、結局できずに終わります。

<大変なこと>ばかり考えないで、いつも<よいこと>も一緒に考えなければなりません。
<労苦と努力の後に一時(ひととき)、一つの期間、一生の間得るよいこと>を考えなければなりません。

そうすれば労苦と努力と投資がもったいなくないから、喜んで行ないます。
そのようにして一度得たら、10倍、100倍もっと享受するようになります。

(鄭明析牧師による主日の御言葉から)

私は摂理で毎日、希望の人生を生きている。
ほんの少し労苦することがあっても、それ以上の喜びと自由と、将来の夢があるから。

 
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