摂理の彩り〜芸術と信仰生活〜

摂理で絵を描いてるMinoriの日記帳。芸術関連の備忘録。

摂理は教祖を中心にする新興宗教ではない

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珍しく真面目な?話でも笑
 

新興宗教は、ある一人の教祖を中心にして、教理だのを教えて信者を集めるとされている。
では、摂理は鄭明析牧師を教祖としているのか?
神のような存在としているのか?
 

報道やウワサではきっとそう言われているだろう。
しかし、宗教嫌いな私からみたら、そういった事実はまったくなかった。
私は実は今でも新興宗教とやらが嫌いだ。そんな人間が摂理にいるんだから…

 

鄭明析牧師は、カリスマ性はある。殺人的スマイルとかw
しかし、よく言われているのが「オーラがない」笑
「何らかのオーラを感じるだろうと思ったけど、会ってみたら普通のおじさんみたいだった!」とかいう人もいるぐらいだ。

 

人はオーラがある人について行きたがる。芸能人、凄いことをした人、雄弁な人、なにかの達人。
また、超常現象を起こしたとか、奇跡をおこしたとか、そういった不思議な能力を持つ人、霊的な人、スピリチュアルな人を祭り上げる。
人は太古から変わらないんだね~どんなに科学が発達しても。

 

しかしながら、うちの(?)鄭明析牧師が超常現象を見出したとか神になってあらわれたとか後光さしてたとかうんたらかんたら…そんなことは一度もない。目撃した人もいない。そんな人に私は着いていきたくない、引くわ。

そういった意味では、摂理はものすごく地味な宗教だ。地味すぎる。
メディアでは華美なものとして非難の的にされたが、もう、静かに信仰させてくれって感じである。

 
…では、鄭明析牧師が何をして、この摂理がこうも発展したのか。若者が集まってくるのか。

 

答えは【御言葉】ただ一つだ。

 

核は、
「聖三位を中心にして愛する信仰」
「御言葉を聞いて実践する生活」
だ。

御言葉のなかに「鄭牧師を信仰しなさい」とか「神の存在だ」とかひと言も入っていない。要するに、【鄭牧師自身を教祖にするための要素が何一つ入っていない】のだ。

『ただひたすら神様。』
先生(鄭牧師)のポリシーだ。
目に見える自分を見てついてくる人たちにも、ひたすらこう教える。「聖三位を見なさい」と。
クリスチャンの基本姿勢ではないか。要するに、牧師自身の権威とか、そういうのは関係ないのだ。なぜなら、神様の前だからだ。

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』
(マタイによる福音書4章7節)

いつも「脳中心、心中心、考え中心」にして、神様と聖霊様と御子に<愛>で接しなさい。
(鄭明析牧師の御言葉より)

いつも天を中心にして行う生き方は、私たち普通の人間が見たら不思議に思う。きっと摂理も、なんか不思議な宗教だなと思われているはずだ。
しかし、教祖=人間を信仰・崇拝するところでは決してないということは確かだ。
私が先生に「先生が私の中心です!」なんて教祖様発言したとしたら、ものすごい悲しむだろうなぁ。

・・・というわけで、摂理は御言葉を教えるのは鄭明析牧師だが、中心は神様ということだ。
以上!

 
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