絵をいつも喜びの心で描けたら嬉しい。
でも、そういう時だけではない。むしろ、もがきや苦労をしながら描くことの方が多い。
そして、調子悪い時にふと構想が思い浮かんだりするから不思議だ。
神様が私を試そうとしているのではない。
神様は、絵を描かせることで私を生かす。
感覚が死んでいる時は心を蘇らせてくださる。
絵を描いている時が、一番生きている感じがする。
摂理で、使命関係で一番お世話になっている(直接ではないが)、ある牧師さまが言った。
「(絵を描くのは)片手間じゃできないよね。」
「なぜ絵を描くのか。自分の”生存”にならなければ。」
そう、あれこれ使命をしながら隙間時間で出来るような仕事ではない。
そして、絵を描くこと自体が「生(せい)」にならなければいけない。
祈りのように、呼吸をするように。
「描かなければ」という次元はとっくに過ぎた。今は、描くことが、自分が生きているということだ。
描けば生きる、描かなければ死ぬ。
やっとここまで来た。
人は生きていることを実感するとき、ときめいているとき、幸福を感じる。
誰かに愛されているとき。
一番は、天に愛されていると実感するとき。
その状態が、私にとって描いているときなのかも。
(賛美している時に置き換えれば理解してもらえると思う。)
でも、愛するということが、嬉しい気持ちだけだったらいいが、時には困難なことがたくさんある。
それでも、天を愛するということ、芸術を愛するということは、”自分で決めた意志”だから、乗り越えなければならない。
描いている途中、だんだん疲れてくる。イライラもしてくる。はやくこの絵が完成しないかとやきもきする。
産みの苦しみの最中に、どれほど天を呼び求めて、経緯を作れるか。そして、それでも感謝しますと希望を抱けるか。
このような生にしてくださった聖三位に感謝する。
天の愛による感謝と希望の喜びを、自分の作品で、また、自分の生で表していきたい。
そうしたら、神様もやれやれまったく、って言って天国に連れてってくださるかも?